-五臓六腑に染み渡る飲み干す一杯-

2度にわたる秋の台風襲撃から、早ひと月以上が過ぎました。立冬もとうに過ぎ木々は色づき、地方によっては初雪の便りも聞こえる今日この頃、冬はもうすぐ目の前に迫っています。

そんな季節になるとふと思い出すのが、寒い夜にどこからともなく聞こえてきたチャルメラの音色です。
築地にも、昭和の時代は夜になると姿を現す屋台のラーメンがありました。凍てつく寒さの中ですすった懐かしいあの味は、いまも忘れることはできません。「ああ、また屋台の中華そばを、飽きるまで堪能したい…」そんな衝動にかられることも少なくありません。

「炭水化物は控えめに…」と思いつつも吹きすさぶ寒風の中、矢も盾もたまらず、先日、新しくできた晴海通り沿いのラーメン屋に行ってきました!

店の名は『北海道ラーメンーみそ熊ー』で、選んだのは「激辛味噌ラーメン」でした。

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早速食してみると、激辛一辺倒ではなく、辛い中にもしっかりと濃厚な旨味がある、なかなかの味噌ラーメンでした。
この場所では少し前まであの『大勝軒』(築地大勝軒)が営業していて、その後でやる以上には、ある程度以上のレベルはまず期待できるだろうとの目論見は、正解でした。「今度は普通の味噌ラーメンを食べてみるべし!いい店を見つけたシメシメ」と、そんなこんなでほくそ笑んでいた私ですが、
ふと思ったのは、「もしかしたら築地って“新・ラーメン激戦区”」?ということです。

いま思えば昭和の時代の築地は、市場周辺は別にして、何故かあまり飲食店がなかったような気がします。場所柄いい食材はふんだんに手に入るのに、どうして店が少なかったのかは、本当に不思議ですが…。
それがどうでしょう、今では晴海通り周辺にはこんな感じでラーメン屋が軒を並べて鎬を削っています。

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同じ築地でもこちらは中央区役所近くですが、夏にはこんなお店もオープン。

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「こ、これは、この看板は…!
二郎系の『らーめん大』が、ついに築地にもできたのか!!」と、一瞬思ってしまいました。

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…既に数回足を運んでいますが、注文は“野菜増し”です。
ここでは外国人のお客さんを何度か見かけているので、もしかしたら、早くも母国でクチコミで広がりつつあるのかもしれませんね。


またあかつき公園近くには、ラーメン専門店ではありませんが、タイのラーメンを食べさせてくれる小さなタイ料理屋があります。しかもクィッティオ(米の麺)ばかりではなくバーミー(タイの中華麺)を作ってくれるのは、嬉しい限りです!

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このように、いつのまにか築地では個性的な美味しいラーメンが食べられる店が、昭和の時代に比べて格段に増えているみたいです。


とはいえ、もちろん昔はお店が無かったわけではありません。
先日焼失してしまった『井上』、『井上』すぐ近くにあり足繁く通った『静乃屋』、担々麺が絶品だった中華料理店『芳蘭亭』、隠れメニューの「端っこチャーシュー麺」にハマった東銀座の『味助』など、無くなってしまった名店もありました…。ただお店の数が少なかったことは確かでしょう。


“無くなってしまった…”といえば、エリアは銀座になりますが、昭和40年台から銀座一丁目にあった老舗中華屋『天津飯店』が移転して神田にあるのを聞きつけ、先日行ってきました!目的は勿論、看板メニューの「北京チャンポン」です。
絶望的に真っ赤なビジュアルながら、不思議とそこまで激辛ではなく深い味わいのある旨味が凝縮された一杯は、昔のとおり!何年も食べていなかったけれども、味の記憶は確かで、しっかりと残っていました。

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…このように炭水化物の過剰摂取を気にしつつもラーメンから離れられない私にとって、築地市場の移転はやはり憂鬱です。そう、場内の多くのお店が豊洲に行ってしまうのです。中でも、『ふじの』のラーメンが遠くに行ってしまうのは、本当に寂しいかぎり。いつもスープまで全て飲み干すあの「正統派の絶品中華そば」は、自分にとっては“五臓六腑に染み渡る飲み干す一杯”なのです…

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…こんなブロクを書いていたら、なんだかまた無性に食べたくなってきてしまいました。「よし、次の月曜こそは絶対にチャーシュー麺を食べてやる、シュウマイ2つ付けて!!」


あ、もちろん築地界隈にはまだまだ美味しいお店はたくさんあります。またこちらのブログでボチボチと、ゴキゲンなお店を紹介されていただきますね。

ただいま工事中 -快適な新時代を迎えるために-

季節外れの寒さと長雨が続きますね…

先週の木曜日10月12日は、最高気温が29℃だったのに、一週間後の日中の気温は12度程度で、その差はなんと17度。
体もビックリの寒暖差で、季節が初秋から初冬へと一気に進んでしまったような異常ぶりです。
昨日10月19日朝は、東京都心の最低気温が9.9℃。10月中旬までに10度を下回るのは1986年10月20日に8.0℃を観測して以来、31年ぶりの珍事です。

これに加えて来週週明けは、これまた季節外れの台風襲来。本州のどこかに上陸する見込みですが、もし週明けに上陸となればこれまでで3番目に遅い記録で、関東上陸なら最も遅い記録となるようです。

今度の日曜は衆議院議員総選挙の投票日ですが、この悪天候は投票率にも影響することでしょうね。
私は悪天候になることを見越して、抜け目なく先日の休日に不在者投票に行って来ましたが…。

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ところで31年ぶりの寒さといえば、前回同じような冷え込みがあったのは1986年秋ということになり、これは和暦の年号に直せば昭和62年で、まだバブル前の時代ということになります。昭和末期の、近年の日本では一番勢いがあった時代ですね。

前回のブログで、「いま築地周辺は建築ラッシュ」とお伝えしましたが、近所にある憩いの広場「築地川公園」ができたのは、うろ覚えですが、確か平成になってからのことだったか?と記憶しています。
かつて家族の一員であった愛犬がこの世を去ったのがやはり昭和末期でした。
現在の築地川公園ができる以前は、埋め立てられた川の形に地下に青空駐車場が広がっていて、そこが犬の散歩コースになっていたんです。現在のバスケットコートがある広場が、そのまま河岸方面に伸びていたという状態でした。

それが時を経て、現在の形の憩いの広場「築地川公園」に姿を変えたわけですが、再来年の春の新時代の到来の前に、今またリニューアル工事中。
トイレまわりが整備されて、より快適な憩いの広場に生まれ変わろうとしているんですよ。

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また地下鉄築地駅のエレベーター工事も進んでおり、この地域はより住みやすい快適な街になることでしょう。

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ところで再来年春から始まる新時代は、どんな元号になるのでしょうか?

新しい元号の新時代がすぐ目の前に近づいてきており、昭和、平成と3つの時代を生きられそうなことが、とても楽しみです。
しかしそんな嬉しさの反面、街は至るところで工事が進み徐々に姿を変えており、昭和の築地の雰囲気や面影が日に日に薄れゆくことには寂しさを覚えます。昭和は遠くになりにけり…
それでも、この地域が昔より快適な街へと確かな歩を進めているように実感できることは、何よりですよね!

“温故知新”-時代は変わる、街も変わる-

待望の2020年東京オリンピックまで、いよいよあと3年を切りました。
会場の中心である晴海地区にほど近い築地はにわかに活況を呈してきており、魚河岸場外で築地駅周辺で、外国人観光客の姿を以前より多く見かけるようになってきた今日この頃です。先週末は通勤前の朝から、築地駅入り口で中国人と欧米人の観光客に立て続けに道を聞かれた次第です。また最近では“奥築地”とでもいうのでしょうか、かつてはほとんど地元の人間の姿しかなかった隅田川近くの築地エリアでも、外国人観光客の姿を見かけることが、珍しくありません。

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ここ築地周辺の人口自体も、先日このブログでお伝えしたとおり、一時期よりかなり増えています。
私が中学生だった1970年代中頃には、中央区の人口は11万人ほどでした。しかしその後はしばらく数万人にまで減り低迷していたのですが、現在はなんと15万人を突破しているのです。この人口増加は、少なくともオリンピック開催までは右肩上がりなのではないのでしょうか?

慣れとは怖いもので、バブルの頃から変わりゆく街の姿には慣れてしまっていたのですが、前回のブログを書く際に街角や路地を歩き回ってみると、今また築地界隈が大きく変貌を遂げようとしていることに、改めて気付かされました。

私の住む明石町のマンションの隣には1年位前までは広い敷地に邸宅があったのですが、現在はこのように新しいマンションに生まれ変わろうとしています。

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築地周辺では、色々なところで大規模な工事が行われており、いままさに建築ラッシュと言えるでしょう。
思い起こせば、地下鉄築地駅近くの築地3丁目の交差点は少し前までは交差点の4つの角に、デニーズ、小さな八百屋さん(角の隣ですが)、果物屋さん、携帯電話会社のビルがあったのですが、現在残っているのはデニーズだけ。携帯電話会社のビルは現在、地下鉄築地駅に直結したマンションの建築工事中、果物屋さんがあった所も工事中です。
他にも老舗アパレル会社があったビルがホテルに建て変わろうとしていたり、あちらこちらで工事が行われているのです。

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これによりまた更に人口が増え、それによって街はより活性化するのかもしれません。バブルが起こる前の築地周辺には100円ショップやミニスーパーなどはなく、今の方が格段と便利で暮らしやすくなっているのは確かなことでしょう。
しかしながら、それに反比例して昔ながらの築地の風情を残す建物がどんどん減っていているのも事実です。

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勝鬨橋がまだ開き、晴海通りに都電が通っていた頃とは、街の姿は劇的に変貌を遂げています。昭和の末期に亡くなった私の祖父祖母が今の築地を見たら、きっと仰天たまげることでしょう。


明石町も聖路加病院や小学校の建て替えにより、街の様相は一変。50年前の佇まいを未だに維持しているのは、僅かに残る個人宅以外には、教会くらいしかないのではないでしょうか?

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聖路加病院が一新され小学校も校舎が建て替わったことにより、シックでありながら明るい雰囲気の街になったことと思います。
しかしながら一方で、昔の白黒の外国映画に出てきそうな鄙びた聖路加病院や街の雰囲気を懐かしく思い出す自分もいます。

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※昭和の時代の旧聖路加病院の病院棟

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-時代は変わる、街も変わる-
今まさに、「古きをたずねて新しきを知る」“温故知新”の心が問われているのではないでしょうか。

築地スタイル

“築地スタイル”と聞くと、何を連想しますか?

美味しい海鮮丼や、場外市場で飛び交う賑やかな商いの声を思い浮かべる方は多いでしょう。いまや世界的観光地となった築地の代表的な風景ですよね。

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でも他にも、隠れた“築地スタイル”もあるんですよ。


築地本願寺と地下鉄日比谷線築地駅がある交差点を隅田川方面に伸びる道を真っ直ぐ行くと、やがて正面にお弁当屋とてんぷら屋の天辰さんに突き当たりますが、その突き当たる少し手前の築地7丁目、道の両側には昭和の時代には2階建ての家が並んでいました。通りの右手、現在ラーメン屋さんがあるところにはくさやを作る小さな工場があり、そして現在新聞社の社屋となっているところには、彫金師の職人の家、時計屋、煎餅屋、油屋、自転車屋が軒を並べていました。その職人の家が私の母の生家で、下の写真の左側にありました。自販機が見えるあたりが、玄関だったでしょうか…。

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コンクリート造りの2階建ての長屋?で、今で言えば、タウンハウスにあたるのでしょうか。
そんな昭和の築地の歩道上には、道ところ狭しと植木や花が競うように並んでいたものです。
祖母が花や植物が大好きだったので、特に母の生家の前には四季折々の花々が咲き乱れていたことが今でも思い出されます。


「植木や花の鉢がたくさん並んでいるのは、何も築地ばかりじゃない。他の下町もそうだよ!」
確かにそうでしょう。でも築地の鉢植えの並びには、多分、他の街と少し違う特徴があったように思います。
それは“多くの植木が、魚介類の容器に植えられていた”ことです。もちろん市場関係者が多く住む街だから自然とそうなったのでしょう、これが私の思い出の、昭和の“築地スタイル”のひとつなんです。

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先日、いつものように街を歩いているうちに何となくそんな記憶が蘇り注意して眺めてみれば、まだまだ当時の名残りがいたるところにうかがえました。
こちらの写真は、あの文豪 池波正太郎がこよなく愛した「かつ平」さんと、うなぎの名店「丸静」さん。「かつ平」さんの主人は弟の同級生、昔のお店は今とは少しだけ違う場所にありましたが、さすがに昔からの築地の住民の居。植木も“築地スタイル”です。

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“築地スタイル”の植木がいまだに街のあちらこちらに残っていることがわかって、なんだかホッコリした気分で鼻歌まじりに路地をそぞろ歩いた夏の午後でしたが、下の写真の鉢植えを見つけ、また更なる記憶が蘇りました。

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植えられているこのコンクリートの箱は、多分、昔の“防火水槽”ではないでしょうか?
祖父の家の前にもあって、そこにも花や植物が植えられていたんですよ。

防火水槽はかつてここに戦火があったことを物語っていますが、その防火水槽に鉢植えが植えられているのは、まさに戦後の平和な時代の昭和の風景なのかもしれませんね。

あれから3週間 ~築地場外市場炎上 その後~

築地場外市場の一角が炎上した悪夢のようなあの日から、早3週間が過ぎました。
悪夢なら早く醒めて欲しいと思っても、紅蓮の炎の爪痕は未だに現場に深く刻み込まれており、今更ながら、あれは現実だったんだと実感させられます。

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あの夜、消火活動は翌朝まで続き、約15時間後に鎮火したとのことですが、それにしても、あれだけの大騒動になりながらもけが人はなく、全勝したのも計7棟で済んだのはむしろ僥倖だったと言えるのではないでしょうか。もちろん実害に遭われた方々の辛苦を思えば言葉もありませんが…。


築地署による実況見分の結果、出火元はラーメン店の厨房付近と判明。こんろ付近の壁の内部が激しく燃えており、調理中の熱が壁に伝わって発火する「伝導過熱」が原因とみられることが分かったとのことです。
「伝導過熱」とは、調理中の熱がステンレスなどの不燃材を熱し、その熱が隣接する木製の壁の内部に蓄積して突然発火する現象。ラーメン店では火災のあった3日午後、翌日のスープの仕込みのためにこんろを使用。従業員がこんろの火を消して同4時ごろに退出した際には異常はなく、壁の内部から発火したようなのです。

つまりは火災を起こしてしまった当事者も、いつものように火が消えるのをちゃんと見届けてから退出したのに、時間をおいて発火し、この度の惨事となってしまったということなのです。

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商店街では普段から火災に警戒し、自主的な防火訓練を続けていたそうですし、今回火災を起こしてしまった方も、火が消えているのに、まさか時間差で後に発火するとは夢にも思わなかったことでしょう…
今回の火災は、本当に不運で不幸な、まさに真夏の悪夢だったのです!

当事者の方々の艱難辛苦を思うと心が痛むばかりですが、今回の災難を教訓にし不遇を乗り越えてくれると信じてやみません。


出口のないトンネルはありません。
近隣はこのように、かつてのような活気を取り戻しつつありますし、絶望の淵から明日へ向かっての希望の歩みは、実は既に始まっています。


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このブルーシートに貼られたメッセージを見てください。実害に遭われた方々も、すでに再起に向けて動きだしているんですよ!

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かつてもっと大規模な火災に見舞われた月島の西仲商店街が見事な復活を果たしたように、大八車に腰かけて熱々のラーメンをすする日々が再び来るのも、きっとそんなに遠い未来ではないでしょう。

終戦記念日

この建物、ご存知ですよね。そうです、昨年できた築地の魚河岸関連の建物です。

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豊洲に場内が移転しても、1階にある店舗はこの建物内で移転後も新鮮な魚を提供してくれるんです。
私は毎週のように行っていますが、掘り出し物の新鮮な魚が見つかりますからとても重宝しています。お薦めです、一見の価値ありですよ!

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…さて、ここの建物の紹介はまた次回とさせていただきます。

ここから昔の話になりますが、隅田川へと続く築地川が、かつてはこの建物の現在の敷地をなぞるように北へ伸び、このブログで度々登場する築地川公園へと続いていたのです。

下の写真は昔の築地本願寺本願寺の後ろを横に流れているのが、築地川です。

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私の母はこの本願寺の裏手、現在の築地7丁目に幼少期から住んでおり、生前は、太平洋戦争(第2次世界大戦)当時のことを時折聞かせてくれたものでした。
そのなかで敗戦濃厚となった終戦末期に、波除神社横から続く築地川に、たくさんの亡骸が浮かんでいたことを覚えていると、悲痛な面持ちで語ってくれたことを今でも思い出します。

戦争を知らない世代の私は、当然実感はないものの、その話に衝撃を覚えました。
かつては母の生家には防空壕が残されてましたし、現在では撤去されたようですが、しばらくは築地本願寺の一角、現在の地下鉄築地駅の真裏にも大きな防空壕があり、そこから実際に戦争がこの地でもあったんだということを生々しく感じることができました。

毎年、この日になるとそんな思い出が脳裏をよぎります。


現在アジアの隣国が本当に物騒なことになっていますが、恐怖と不幸と絶望を巻き起こす戦争は、断じて繰り返してはなりません!!

終戦から72年経ち当時を知る人はだんだん少なくなってきていますが、ご健在の方々、この終戦記念日の折りにつけ、語り部となって子や孫や知人に、後世に悲惨な戦争の話を伝えてください。二度と悲劇を繰り返さないためにも…

真夏の悪夢 ~築地場外炎上~

数時間前のことです。
暮れなずむ真夏の夕暮れ刻、いつものように抱えた原稿に悪戦苦闘していると、知人から1本のLINEの着信が。

何だろう…と目を向けるとそこには
築地市場が火事だけど、家、大丈夫?」の文字が!!

慌ててYahooを開いてみれば、“築地市場が延焼中”とのタイトルが飛び込んで来ました!
焦る気持ちをなだめ、食い入るようにじっくりと記事の写真と内容を見ているうちに、概ねの状況が理解でき、少しずつ落ち着きを取り戻していきました。

かつて月島の西仲商店街の南側のかなり広範囲が延焼してしまったことが脳裏をよぎったのですが、今回は場外全域が焼け落ちてしまう最悪の惨劇だけは免れそうだということだけは理解できたからです。


その後私が築地市場に到着したのはもう10時をまわっていましたが、そこにはおびただしい数の消防車と、心配そうに見守る多くの人々の姿がありました。

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散水されている先を目をこらしてみると、そこは昔から愛用している出刃包丁の老舗と、いつも行列ができる中華そばの人気店の焼け焦げた看板が…もはや言葉はありません。

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とにかく被害に遭われた方々の無事を、何より願ってやみません。
出口のないトンネルはありません。暗闇の先には必ず光があるのですから、たとえ時間は多少かかっても、きっと立ち直れるはずです。

あの場外の喧騒の中で絶品東京ラーメンを頬張れる日が再び来ることを信じています。そして心から応援します、「頑張れ築地!!」