【東京 築地明石町】 Vol.1

“文化の華 海を越えてくる ここに日本の夜明け 誉の門出…”

 

これは、かつて東京都中央区立明石小学校の隣にあった『東京都中央区立第2中学校』の校歌の冒頭ですが、歌詞からは、日本における西洋文明の黎明期に時代の最先端に立ち華やいでいた『明石町』の当時が偲ばれます。

街のあちらこちらに記念碑やモニュメント、洋邸や教会などが点在し、“明治の文明開化の香り”が、今もなお漂ってきます。

 

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安政5年(1858年)日米修好通商条約により開国の条約を結んだ幕府は、江戸にも神戸、長崎などのように貿易のために来日する外国人のための居留地を設けることを義務づけられました。そこで幕府は、隅田川の河口の武家地であった明石町を選び、明治元年に「築地居留地」が完成しました。居留地には学校や病院、教会、住居としての西洋館が建てられました。このようにして東京の町に、異国の文化が次々と広まっていったのです。この築地居留地は明治32年に条約改正にともない他の居留地と共に廃止されました。

現在、築地居留地跡には明治35年アメリカの聖公会のトライスラーが創立した聖路加国際病院が建っています。建物は最新の設備を備え、建て直されましたが、昭和7年に完成したアントニン・レイモンド設計、清水組(現在の清水建設)施工のチャペルが異国情緒を漂わせています。
また、聖路加国際病院の敷地の隅には、この地で産声をあげた小説家の芥川龍之介生誕の地を記した碑が建てられていました。芥川龍之介は明治25年三月一日(辰年辰月辰日)辰刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されたそうです。
                                                                                    -東京都中央区役所 ホームページより-

 

これから数回にわたって、西洋情緒を漂わせながらもどこか懐かしい『東京 築地明石町』を紹介していきます。